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Yellow Roof 's Museum
物の見方
鎌倉アルプス (鎌倉市) 2016/01/09
産まれた時から「物の見方」が変わらなかったのは、10歳までに9度の引越を経験したためだろう。行く先々には異なる人々と異なる世界があり、いつかまた立ち去ることになる。同世代に本音と建前の壁が築かれ始めても、常に異邦人の自分には、「みんな」「普通」「常識」といった言葉に意味もなく、使うこともなかった。
鎌倉アルプス (鎌倉市) 2016/01/09
新しい世界はどんなところか。「みんな」とは誰と誰のことか。その「常識」は誰から聞いたことなのか。「普通」という言葉は何を意味していて、誰の視点で語られているのか。移りゆくうちに、どの世界でも通用する仕組みや構造が見つかることもある。それは臨機応変な行動に直結し、次第に順応が早くなっていった。
鎌倉アルプス (鎌倉市) 2016/01/09
言葉より先に歩くことを覚える赤ん坊のように、行動や能力は試行錯誤しながら自ら獲得していくもので、言葉は要らない。この原初的な方法で身に付けた様々な技能は、どんな世界でも着実に役に立ってきた。しかし、成長するにつれて、同世代の者たちは、物事は言葉で伝えたり覚えたりできるという思い込みに囚われていった。
建長寺 (鎌倉市) 2016/01/09
個人の認識や観念は百人百様だが、対話を重ねれば捉えることもできる。ただ、集団に共通するものは見定めにくい。たとえ主導者がいても、共通認識や慣習には意味がなく、ただ言葉や行動を合わせるしかない。自分は、今もなお、言葉というものを信じることも疑うこともできない。そう気付いたのは、ずっと後のことだった。
鶴岡八幡宮 (鎌倉市) 2016/01/09
多くの者は言葉を通じて、社会通念や価値評価、既存の知識といった枠組みを基盤にしている。言わば、辞書で定義を確かめながら、言葉を積み上げていく。一方、自分の場合、まず現実や事実から掴んだ意味があり、それに当たる言葉を探していく。そこに枠組みはなく、言葉も意味を表現する道具の一つでしかない。
鶴岡八幡宮 (鎌倉市) 2016/01/09
言葉で規定された世界は、切り取られ、分解され、元の全体像を失っている。言葉は自分にとっては抜け殻のようなもので、背後にある構造や仕組みを紡ぎ直しながら意味を捉えていく。言葉を信じないということは、疑うという意味ではない。現実や事実と照らして、その言葉に確かな意味があるかどうかを探し続けることである。
鶴岡八幡宮 (鎌倉市) 2016/01/09
自分にとって言葉は、目に見えない構造を掴む道具で、意味を決めるものではなく、全体の形状や関係性を掴むためのものである。言葉を基盤とする者は、常識と知識で補って読解しようとするが、それは体験の共有ではなく、言葉の共有に過ぎない。それは表面的な理解で、相互理解でもなく、実践とも結びつかない。
鶴岡八幡宮 (鎌倉市) 2016/01/09
恐怖や嫌悪といった感情は、現実への拒絶反応である。共感されるために切り取られ、評価のために先入観の枠に当て嵌めた情報は、一過性かつ部分的な内面的事実に過ぎない。快不快の源である現象の正体は、情報から感情や評価を切り離した事実のみであり、確認すべきは言葉ではなく、現実そのものである。
鶴岡八幡宮 (鎌倉市) 2016/01/09
何かを教える場合には、先に自分が実践を示すべき時もあるが、相手の実力を確認すべき時もある。自分の知識や能力を隠して一歩引けば、相手は自発的に動き始める。相手が現実をどう捉え、どう行動するかに合わせて補完することで、相手は自ら把握していくことができる。その上、互いに新たな方法を見出す可能性もある。
鶴岡八幡宮 (鎌倉市) 2016/01/09
理解とは、対象に形を与えることではなく、形を変えさせないまま近づくことだろう。自分の思いや感情を優先させるほど、対象の形は崩れていく。例えばそれは、撮った写真をそのまま使うか、加工やデザインを施したくなるかという違いに表れる。自分の内面を整えることに傾注するほど、現実的な理解からは遠ざかってしまう。
銭洗弁天 (鎌倉市) 2016/01/09
意味を伝達するのは自分でも掴むのは相手で、そこに「私」への理解は本質的に必要がない。無知や無能と思われる可能性もあるが、自分の介入が障害や損失に繋がる可能性もある。確かめるべきことは、相手が何をどう受け取って、どう活かすかである。確認し続け変化を見続けること。それが教えるということではなかろうか。
銭洗弁天 (鎌倉市) 2016/01/09
沈黙の中に潜むものを見ようとせず、既存の知識や価値観で塗り潰せば、そこにある微かな変化は見失われる。現象を読み取るだけなら、何を傷つけることもない。目の前で展開されている現実が主で、その解釈や説明、評価は従である。現状を五感で掴みながら変化を加えていくことが技術であり、その経験的集積が技能となる。
佐助稲荷神社 (鎌倉市) 2016/01/09
体験を共有できなければ言葉で表すしかない。実践知識として伝わったかどうかは、その後の相手の行動や言葉のやり取りの中で確かめていく。つまり、黙っていることと語ること。その往復である。だからこそ、意図や感情は明示的に語らず、相手に根源的な問いや感覚が自然に浮かび上がる表現を自分は探し求めてきた。
佐助稲荷神社 (鎌倉市) 2016/01/09
自分は社会的な意味で「人間的」であることには違和感を抱いている。人間性を否定したいわけではない。といって、肯定するにはあまりにも不確かな気がする。その違和感は、動物的な知覚や本能的な構造の中に世界が映っていても、人間だけが、言葉という鳴き声に真の姿が宿るかのように思い込むことにあるのかもしれない。
佐助稲荷神社 (鎌倉市) 2016/01/09
評価はつむじ風のようなもので、見る者の位置や時間、条件、価値観でまるで変わってしまう。しかし、枝は揺れても幹は倒れないはずである。人は周囲の評価に流されながら成長し、人生の終焉になってようやく解放されて子供に還っていく。そこから見る景色こそが原風景であり、残った幹こそが真実の姿ではなかろうか。
佐助稲荷神社 (鎌倉市) 2016/01/09
人の営みは、自然の営みの一部にすぎない。そうした視点からは、人間のつくる制度や倫理もまた、自然現象のように見えてくる。そう思えたとき、判断は確からしさに近づいていく。自然には正しいものも誤ったものもなく、どこかに均衡点が垣間見えるだけである。正誤の価値観も人様々な均衡点が干渉し合う波紋だろう。
長谷寺からの眺望 (鎌倉市) 2016/01/09
均衡点に立って眺めてみれば、合理性や効率の言葉で語られる世界には、小さなずれも見えてくる。例えば、道が整えられるほど歩きやすくはなるが、逆に、脚力は維持しにくくなっていく。そのずれは正誤ではない。それは、現に今ある世界の構造であり、社会や時流の変化であり、百人百様の人々が作り出す渦である。
長谷寺 (鎌倉市) 2016/01/09
秩序はつくるものではなく見出すもので、ある配置、ある重なり、ある間合い。それらがたまたま生み出した関係のことである。現実は絶えず変化し続けており、均衡点も常に移動し続けている。秩序があるからには無秩序もあり、無秩序があるからこそ秩序がある。両方を見据えることで、秩序を維持する意図が見えてくる。
長谷寺駅 (鎌倉市) 2016/01/09
境界は、線を引くことで生まれるのではなく、違いが重なりあって見えてくる。その違いを切り分けずに持ち続けることでしか、両側の全体像に触れることはできない。光があれば影があり、動があれば静もある。価値観にも境界線がある。真偽、善悪、美醜、好悪、優劣…。ただ、人それぞれの心の中が外から見えるとは限らない。
七里ヶ浜 (鎌倉市) 2016/01/09
風景を見ているとき、どこまでが風景で、どこからが自己の内面なのかが分からなくなるときがある。その曖昧さに身を置いて、線を引かずにいる時間こそが現実かもしれない。自分は価値観に身を置くより、対象に寄り添うことを選んだ。砂浜に打ち寄せては引く波のように、有形無形の混沌から受け取るものは無言の共鳴である。
七里ヶ浜 (鎌倉市) 2016/01/09
自分には美が見えないし、指し示すこともできない。それは、美しさというものが現実には存在しないからだろう。美的価値観は、初めは教え込まれ、やがて周囲から学び取り、知らぬ間に自分本位の美学へと変わるらしい。美醜という枠組みは色眼鏡のようなもので、現実をそのまま見る目を次第に曇らせていく。
七里ヶ浜 (鎌倉市) 2016/01/09
人々に深淵と見えるものが、自分には基礎に見える。選ばれなかったもの、捨てられたもの、忘れられたもの。そこにも確かに時間が流れ、営みがある。光の当たる場所だけで世界が保たれているのではない。目を逸らされ、沈んでいったものたちもまた、全体を紡ぐ見えない糸で、断ち切られれば、世界は音もなく崩れていく。
七里ヶ浜 (鎌倉市) 2016/01/09
他者が説明書に頼る時、自分はただ現実と対話する。知識は後付けに過ぎず、あらかじめ決められたものでもない。世界は刹那にしか掴めず、絶対と言うことはできても、絶対はない。現実は流動しており、予言は不可能で、当たり外れのある予測しかできない。自分にできるのは、ただ世界を保留しておくことだけである。
七里ヶ浜 (鎌倉市) 2016/01/09
多くの人が言葉から世界を知覚する中で、自分は言葉以前の現実に立つ。意味を付与するよりも、意味の外にとどまることの方が、長く世界を見ていられる。体験するということは、事実の収集ではなく、まして言葉に置き換えることでもなく、そこにあるものと自分の間にある沈黙を保ち続ける試みではなかろうか。
七里ヶ浜 (鎌倉市) 2016/01/09
自分もまた、変化の流れの中にある存在である。変わるということは、終わりではなく一つの通過点にすぎない。変わる前と、変わった後。そのどちらにも目を向けてはじめて、何が変わらなかったのかが見えてくる。移ろいゆく中にあって、たしかに残るもの。それは変化を通してしか浮かび上がらない。
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