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黄色い屋根の博物館
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***< [1246] 変化とは何か***

計画とは何か


スズメバチの巣と水車小屋 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
あらゆる生物は、産み落とされた環境で生き延びるために、試行錯誤を繰り返し、様々な経験を重ねながら成長していく。不安定で変化の激しい世界を臨機応変に切り抜けていくためには、遺伝的に受け継がれた本能や形質を自ら活かし、不断に学習を重ねて適応し続けることが必要になる。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
生物は絶え間なく試行錯誤しながら成長し、同時に、変化に臨機応変に対処できる身体能力を獲得していく。これこそが、30億年の歳月を駆け抜けてきた生命の原理だろう。人間を含めて、全ての生物は、この積み重ねがなければ何も身に付かず、何にも耐えられず、ただ朽ちるように自滅への道を辿るほかはない。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
現実は絶えず変化し、未来は決まっていない。そのため、生物は臨機応変に試行錯誤し続けていくしかなかった。言わば、「即応型」の行動様式が生命線の「鍵」である。人間は行動に「計画」を持ち込み、偉業を成し遂げてきた。しかし、その人工物さえも、絶え間なく修復し続けなければ、やがては時に埋もれてしまう。


クリスマスローズ (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
人間の「計画」は後天的なもので、意図に基づいて未来のモデルとして設計される。複数の集団が様々な立場で同じ計画に携わる長く壮大な計画もある。しかし、「計画」は現実の行動とは別物である。計画を現実化するためには、その目標を守りつつ、計画の理想像に近づける実践的な行動の積み重ねが必要になる。


クリスマスローズ (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
例えば、リスの貯食行動と人間の資産運用は、表面的にはどちらも「計画」に見える。しかし、その内実は異なる。リスの行動は、安全なら食べ、危険なら逃げ、満腹なら貯めるといった臨機応変な即応である。そこには、人間の計画のような未来を見越した意図はない。つまり、「計画」に見えても、それは擬人化にすぎない。


クリスマスローズ (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
計画を支える高度な認知能力は、人類に特有なものとは言える。けれども、「計画型」行動様式とまでは言えない。それは人間を他の生物から隔絶させるものではなく、「即応型」行動様式の範囲と質を、はるか遠い未来へと拡張したにすぎない。「計画」は、即応型という基盤の上に築かれた塔のようなものである。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
人間の行動の原理もまた、生物全体に共通する「即応型」でしかない。たとえ計画を立てていても、私たちの神経系と身体は、呼吸やバランスを取るように、絶え間なく流れる「現在」に即応し続けるしかない。つまり、計画は「思考の上着」のように頭の中にあるだけで、現実化には試行錯誤を伴う行動が必要になる。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
現実は常に流転する。光の加減も通り過ぎる風も、人の行動や心模様も、現実の変化は完全に予測も制御もできない。にもかかわらず、計画はこの流動性を無視し、世界を静止した模型のように扱おうとする。そうなれば、必然的に根本的な摩擦が生じることになる。この構造を見落とすと、摩擦は事故や病害となって現れる。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
計画への執着は生命の原理への軽視と反逆を産む。流れる現実に即応する代わりに、固まった計画に現実を無理に合わせれば、必ず摩擦と抵抗を生む。川の流れに逆らって立ち続けるように、計画という幻想にすがって変化を無視し続ければ、恐怖を感じた時には逃れることもできず、全てが手遅れになってしまう。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
計画型の行動様式は、遅延や障害の根源である。計画通りにいかない現実を「例外」や「障害」と見なせば、人は常に苛立ち、挫折感を味わうことにもなる。しかし、問題は現実の変化自体ではなく、変化に対応できない計画の本質的な硬直性を見抜けずに、信じ続けてしまうことにある。もはや、計画という名の宗教である。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
現代社会は「計画型」を偏重する。それは、複雑化した社会を効率的に運営するために、標準化と予測可能性が不可欠だったからである。工場の生産ラインから学校教育まで、あらゆる制度はこの論理で設計されている。現代のAIも同じ設計思想で作られている。つまり、それは理想と信念が硬直した産物である。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
社会は計画を「正しさ」の基準の一つとして人間に刷り込んできた。計画を立て、それに忠実であることが「責任ある態度」とされ、逸脱すれば「無計画」や「怠惰」のレッテルを貼られる。この価値観は共同体の権力構造として、後天的に成員に深く刷り込まれるもので、こうした価値観こそが先入観や固定観念の正体である。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
教育、企業、法制度といったあらゆる社会装置が、この幻想を再生産する。カリキュラム、目標管理制度、法律は、すべて未来を規定する「計画」の具現化である。人はこうした装置を通じて、計画型思考を「空気」のように吸い込んでいく。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
人はこの物語が支配する環境、巨大な巣の中で息をしている。そのため、このパラダイムの外側を想像することさえ難しくなっている。それは、水の中に住む魚が水の存在を意識しないのと同じである。けれども、魚は水流の変化に即応しながら泳いでいる。それは「計画型」の行動ではなく、「即応型」の行動にほかならない。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
計画の偏重は個人に弊害をもたらす。計画と現実の齟齬に直面すると、人は往々にして自分自身を責めて、「計画が悪い」のではなく「自分が足りない」と考える。こうした自己不信とは逆に、成功が続けば自信となる。どちらも計画を立てないと行動できないと思い込むためだが、そもそも行動と計画はまったく別次元である。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
計画型行動様式は、挫折や自己不信、創造性の減衰、燃え尽き症候群の根源である。これらは、生命として自然な「即応」の欲求が、社会的な「計画」の要請によって抑圧され、歪められた結果に生じる摩擦、不適応症状である。それは、「計画」という幻想と現実が区別できていれば生じない。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
「計画型」は生物としての自然な反応が疎外されている証である。息苦しさや疲労は、システムへの適応がうまくいっている証拠ではなく、むしろ、私たちの生物としての本質が、そのシステムと相容れないことを示すシグナルなのである。計画型は予定に振り回されて「疲れ」を感じるが、即応型は自ら行動を調整するだけである。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
組織は表向き「計画型」のルールを要求する。報告書、工程表、業績目標——これらはすべて、組織という機械が円滑に回転するために必要な、計画という歯車なのである。ただし、「計画」はあっても、現実は計画に沿って変わるものではなく、「即応型」行動によってしか変化を加えることはできない。


フジの花(本紅藤) (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
計画を現実のものとするのは成員の「即応型」の能力である。想定外のクレームに対応するのも、チームの雰囲気を読んで声をかけるのも、機械の不具合をその場で修理するのも、すべてマニュアルには書かれていない即応の所産である。


フジの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
建築現場では、設計図は完璧でも、資材の寸法誤差、天候の変化、地盤の想定外の固さなど、無数の「現実」が計画に修正を迫る。それを熟練の技で調整するのが職人であり、プロである。したがって、計画通りにしか動けない素人であり続ければ、やがては障害や危険因子とみなされ、必要とはされなくなる。


オオデマリの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
計画の設計図は、熟練職人の即応的な技術によって現実の建築物へと変換される。使える道具や現場を見ただけで、計画や目的を見抜くほど熟達した職人が参加すれば、計画全体が見直されることもある。つまり、建築とは、計画という「理想」と現場という「現実」を、即応の力で絶えず擦り合わせていくプロセスである。


オオデマリの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
試行錯誤を危険視する社会の価値観は、静的な計画という基準で流動的な現実を断罪する認知の硬直性である。試行錯誤は、絶え間なく流れる現実という水流に対する即応的な調整の結果であり、即応行動に結果論として成功や失敗といったラベルを貼る必要も意味もない。ラベルを貼るべきは硬直した計画の方である。


オオデマリの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
仕事を終えた後の開放感は、それだけ自由に身動きできなかった証拠である。仕事中の不安や混乱、締め付けが大きいほどストレスも大きい。仕事に何の摩擦もなければ開放感もないが、その代わり、ストレスもない。それは、自分で決めて自分で着ている「計画」という名の上着である。時には、見直しも必要だろう。


水車小屋 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29
集団的な計画に合わせて行動をし、なおかつ、承認欲求も満たすことができる「演技」という手もある。それは、現に大勢に認められている人の行動を真似たり、その実績を目標とした仮想的な「台本」に従って行動するということである。本来の自分とは違う演技者として計画を乗り切っていくことで、自分を律する行動は一種の自己防衛で、一般的には「演技」ではなく「役目」と呼ばれている。


ボタンの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29


メタセコイアシャクヤクの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29


シャクヤクの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29


シャクナゲの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29


シャクナゲの花 (横須賀しょうぶ園) 2016/04/29


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