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Yellow Roof 's Museum
2016/02/27
新崎川 (湯河原市)
人々に深淵と見えるものが、自分には基礎に見える。選ばれなかったもの、捨てられたもの、忘れられたもの。そこにも確かに時間が流れ、営みがある。光の当たる場所だけで世界が保たれているのではない。目を逸らされ、沈んでいったものたちもまた、全体を紡ぐ見えない糸で、断ち切られれば、世界は音もなく崩れていく。
新崎川 (湯河原市)
他者が説明書に頼る時、自分はただ現実と対話する。知識は後付けに過ぎず、あらかじめ決められたものでもない。世界は刹那にしか掴めず、絶対と言うことはできても、絶対はない。現実は流動しており、予言は不可能で、当たり外れのある予測しかできない。自分にできるのは、ただ世界を保留しておくことだけである。
新崎川 (湯河原市)
多くの人が言葉から世界を知覚する中で、自分は言葉以前の現実に立つ。意味を付与するよりも、意味の外にとどまることの方が、長く世界を見ていられる。体験するということは、事実の収集ではなく、まして言葉に置き換えることでもなく、そこにあるものと自分の間にある沈黙を保ち続ける試みではなかろうか。
新崎川 (湯河原市)
自分もまた、変化の流れの中にある存在である。変わるということは、終わりではなく一つの通過点にすぎない。変わる前と、変わった後。そのどちらにも目を向けてはじめて、何が変わらなかったのかが見えてくる。移ろいゆく中にあって、たしかに残るもの。それは変化を通してしか浮かび上がらない。
新崎川 (湯河原市)
現実は絶えず変化する。変化の緩急や規模によっては、微動だにしないように見えるが、変わらないものは現実にはない。変わらないという幻想を抱けるだけである。生物は、日常的な変化には自然と順応するので、違いを感じにくい側面はある。それは、変化に抗して自らを変化させ、内部環境を保つ恒常性という仕組みである。
湯河原梅園 (湯河原梅園)
人生の初めの変化は、正の方向、つまり急速な成長として顕れる。自らの変化を最も自覚する時期は、環境の変化を最も敏感に察知する。予測不能に変化する世界で生き残るために、栄養を摂取し続け、変化に対抗できる身体を造り上げていく。大人になるということは、ある意味、変化に対して鈍感になっていくことでもある。
湯河原梅園 (湯河原梅園)
成長速度がなだらかになり、頂点に達する頃には、変化に応じて動いたり、変化させることにも慣れてくる。周囲の変化が日常として認識されると、習慣的行動を採るようになる。現実は変化し続けているが、先入観や固定観念といった変わらない幻想が増え続けていく。その幻想を支えるのは、人の場合、主として言葉である。
カワヅザクラ (湯河原梅園)
人という生物は、成長が遅く巣立ちも遅い。インフラ整備された過保護な環境下では、脆弱な肉体と、勝手気儘な精神を抱えたまま生きていける。その代わり、膨大な知識と技術で構築された社会に適応するためには、莫大な時間が必要である。その規模は、個人の能力を遥かに超えており、知ることもできることも僅かしかない。
屋台 (湯河原梅園)
自分は何を知っていて、何が解っていないのか。どこまで出来て、何が出来ないのか。安定した生活の中では区別がつかない。何も持たずに文明から離れて、自然の中に放り出されない限り、生きるための能力がどれほど自分に備わっているかは判らない。しかし、それこそが生物としての個々の基盤であり、基礎力である。
湯河原梅園 (湯河原梅園)
人の変化は、やがては負の方向、つまり老化へと向かっていく。変化が老化に転じると、自分が取り残されることによって、周囲の変化が見えるようになる。そうなってきた時、人は変わることに別の意味を与えざるを得ない。否定したところで変化が止まらない以上、変わることそのものを捉え直す視点が必要となる。
ウメの花 (湯河原梅園)
やっても出来ないことはある。しかし、それは果たして今でもできないだろうか。以前出来ていたことは、次もできるだろうか。出来なければ失敗。出来れば成功。それは結果にすぎず、未来は決まっていない。結局、やってみなければ何もできず、結果も判らない。現実は絶えず変化する。つまり、全ての行動は試行錯誤になる。
湯河原梅園 (湯河原梅園)
変化と向き合う時に、「恐れ」を感じて立ち止まることがある。負の感情は、現実を見ないように仕向け、思考と行動を凍りつかせる。必要なことは感情ではなく、変化を見定める感覚であり、臨機応変に対処する能力である。「恐れ」は変化の拒絶反応であり、先入観や固定観念は、変化に鈍感にさせ、現実から離れさせてしまう。
ウメ (湯河原梅園)
現実との関わりを避ける理由には、いくつかの典型的なパターンがある。「関係ない」「どうせ変わらない」「準備してから」「仕事が忙しい」など、一見もっともらしい。だが、それらの根底にあるのは、未知や失敗、責任や変化への恐れである。その分の現実は他者の肩にのしかかり、自分ではやらずに転嫁し続けることになる。
ツバキ (湯河原梅園)
劇的変化だけが変わるということではない。少しずつ、見えないほどの傾きの中で、気づけば景色が変わっている。だからこそ、「変わった」と気づいた時には、その出来事の本質からは、既に遠ざかっている。変化は、名付けられないまま進行する。それに気づき、対処することができるのは、見ることを止めない者だけである。
ツバキ (湯河原梅園)
変わったと思った時には、既に次の変化が始まっている。変わることを恐れたり、変わらないことに固執しても、それでも変わらざるをえない。不変を維持するためには、不断の抵抗を続けるしかない。変わる瞬間を認めず、気づいても無視し続ければ、いつしか頭の中の古城に囚われの身となり、時の流れに取り残されていく。
ウメ (湯河原梅園)
時に、変わらなかったと思っていたものさえ、いつしか別の光の中で、まるで別物のように見えることがある。それは、変化が対象を変えたのではなく、見る者が変化の中にいた証かもしれない。変わらないと思い込んでいたり、変化を忘却してしまうこともあるが、自分もまた確かに変わっており、変わらざるを得ない。
ウメ (湯河原梅園)
変化を拒み続ければ、自らの感覚は麻痺していくばかりになる。決まった時間に決まったことを繰り返し、保身と保守に傾倒しても、老化へと向かう変化を止めることはできない。準備や想像はできても、未来が決められるわけではない。「安全」や「健康」、「大丈夫」という言葉には何の保証もなく、ただ信じることしかできない。
ウメ (湯河原梅園)
個々人の現実から目を背ける姿勢が全体に及ぼす影響は、知的インフラや思考基盤の劣化として顕われている。それは回り回って、能力の低下として自分に返る。日々刻々と現実に対する認識力や判断力が損なわれ、不測の事態に備える順応性が失われ、かつては自分で出来ていたことが、出来ない理由へと置き換わっていく。
ウメとツバキ (湯河原梅園)
世の中が便利になっていくにつれて、できなかったことができるようになることもある。それは、自分が挑まなかったか、挑んでも叶わなかったことである。しかし、自分でやらなくて済み、考えなくて済むようになったことは、自分から失われていくものである。自分も周囲も少しずつ変わるため、ほとんど気づかないこともある。
ウメとツバキ (湯河原梅園)
生物には恒常性や防衛反応という変化に抗する仕組みがあり、大きな変化は抵抗や恐れとして感じるが、大抵は無意識的に反応している。しかし、人の場合、現実と切り離した生活環境を維持できる。政治批判やスポーツ観戦。文化や娯楽の享受。自分で対処すべきことを最小にできる。その代償は、生物としての基盤の破綻である。
湯河原梅園の池 (湯河原梅園)
発達した情報網は、自ら現実を確かめずに済ますための便利な道具ともなる。身の回りのことよりも、検索窓の中やニュースで流れてくる情報こそが真実と思い込めば、手放すことが考えられなくなってしまう。日常を退屈に感じたり、変わらないと思うのは、安定した生活の代償に、自らの能力が失われていくためかもしれない。
湯河原梅園 (湯河原梅園)
好奇心が衰え、変化を厭うようになると、自分に要らないものは見もせずに拒んだり、何もやらないうちに出来ないと決めるようになる。日頃から注意を向けず、関心が薄いことは、意識からも排除されて、記憶にも残りにくい。こうした得手不得手や好き嫌いは、自ら定めた先入観であり、変化に対するフィルターの役割を果たす。
ウメとアブラナ (湯河原梅園)
好悪や評判、印象といった価値観や観念、そして言葉の上の知識は、自分の頭の中にあるだけである。それを最優先にしていては、幻想は何も変わらず、変わりゆく現実を生き抜く能力が磨かれることもない。現実の世界を捉える五感と対処能力、そして物事の本質や構造、仕組みを理解する知力は、実践経験以上には培われない。
アブラナ (千歳川)
情報として知っているだけで、現実には見たことも聞いたこともなく、身近にあっても意識すらしていないことがある。ニュースで知ったつもりになり、マニュアルがないと何も出来ず、目の前のことを知らないと言う。そうしたことが日に日に増えていくとすれば、言葉を経なければ現実に対処できなくなっているためだろう。
千歳川のダイサギ (千歳川)
いつ何が起こるかは予測できない。生物は、現実の変化に対処していくために、試行錯誤し続け、自らできる限り、技能を磨いていく。人も同じはずである。ただ、過保護な環境や自らの決め事に縛られれば、臨機応変な対処力は脆弱になる。できない、わからない、嫌いで済ませてしまえば、認識不足のまま回避し続けるしかない。
ダイサギの飛翔 (千歳川)
現代社会は、もしかすると本質的に巣立ちしないで済む生物を創り上げてしまったかもしれない。言わば、社会そのものが、巨大な「親」の役割を果たす「巣」 であり、人々はその中で飼いならされた状態になっている。とすれば、そこからの旅立ちは、原始状態に放り込まれるか、意識的に巣立ちをしていくしかないだろう。
Yellow Roof 's Museum